最近、感じたことをまとめて書いてみたいと思います。
☆イスタンブールの展示会へ行ったとき。私はどこか「先進国の日本からやってきました!」的な気分でトルコへ行ったのではないかと思います。
しかし、現地で声をかけられたのは、ほとんど、「日本は昔はすごかったよね。今はすっかりダメになってしまったけども。」
「昔はソニーとか任天堂とかすごかったよね。でも20年、そのまま発展しなかったね。」
驚きました!!
どちらかというと哀れみの言葉をかけられた気がします。ショックでした。。。
トルコは遺伝子組み換え食品は一切、輸入禁止。
袋にNo.1 クオリティーとか書かれていたら、根拠がないからという理由で輸入禁止だし。
政府に問題はいろいろあって、決して良い政府ではないけれども、『国民の健康を守る』という国家の基本はしっかりしていて。
食がとにかく安心して楽しめました。
そういう部分は、うらやましかったです。
☆イスタンブールの街は急こう配の古い石畳の坂道が多く。
汚いはなしだけど、トイレの紙はぜんぶ流さずにビニール袋に詰めて、毎日、道路に置かれた大きなごみ袋に放り込む。
2.5メートル四方くらいの大きなビニールの箱のようなゴミの山をリヤカーに載せて、10代の少年が古い石畳をリヤカーを引いてごみの集積所へ運んでいくのを、あちこちで見ました。 学校は行ってるだろうか?
雪の日などはどうなるのでしょう。
自分の身体よりも重いリヤカーを引いていくので、身体が宙に浮かんでしまうのを、勢いを付けて足を地面につけて一気にだ~っと駆けていく。
世界でも大変な仕事の5本指に入るのではないかと思いました。
街には自分の子供を地面に寝かせて、観光客にお金を乞う母親。
使い古した体重計ひとつを歩道に置いて、それを50円くらいの値段を書いた紙を貼って売っている男性。
とっても不景気そうだった。
でも、不思議と日本のように住む家もなく路上で暮らす人は見当たらなかった。
みんなとても大変そうだったけど、限界でもがんばっている人たちばかりだったなぁと思います。
希望を持っていた。
☆イスタンブールから帰る飛行場へ向かうバスの中で、たまたま横に座っていた初老の男性と話しをしました。彼はシリア系イスタンブール市民。技術を持っていたので、イスタンブールで仕事をすることが出来ているのだと。バカな私は「今日は故郷へ帰るのですか?」と聞いてしまい、彼はびっくりした顔をしてから、涙を浮かべて、シリアへは帰れない。シリアで家族も自分の持っていた工場も全部失った。僕の人生はとてもつらいことが多いのだと。。。
彼はがんばって生きていた。生きるってそういうことなんだ。
☆歌はもうやめたのかと、この1年間、ライブをしていないので、よく聞かれます。
私がライブを始めた時のことを、5年一度くらいネットに書いてきてますが、また書こうかと思います。
20歳くらいからジャズやボサノバが好きで、家で歌うようになり。結婚してからそれまで習い事などしたことが無かったので
どうしてもジャズボーカル教室に通いたくて、習いに行きました。
2年半くらいで、少し教室のライブに出演させてもらえるようになったのですが、自分のワンマンライブなど絶対にやりたくないと思ってました。
自分の歌を無理やり人に聞かせるなんて、そんな自己満足な行為を押し付けられる人が気の毒と思ってた。
そのうちアレルギー性喘息になってしまい。
6年間歌が歌えなくなりました。
やっと喘息が治って、2人目の子供を授かり、また歌が歌いたくなってきた。
そのとき、近所で知り合いのママさん友達がはじめたゴスペルコーラスに参加して歌いはじめました。
だいぶゴスペルにはまって歌っていたのですが、どうしてもクリスチャンにはなれないのに、
聖書の歌を歌うことが納得できない。
ゴスペルをやめたときに。
私にとってのゴスペルはジャズやボサノバだと思いました。
ジャズやボサノバの中にある愛を人に伝えていこうと思って歌ったら、それはゴスペルになるのだと思いました。
音楽の中には神様の愛がある。
普段の仕事や生活は生きるということだけど、音楽の中には神様がいて、それが真実の世界だと、いつも感じることができる。
このことを周りの人に歌うことで伝えたい。
神様に私の身体を使って道具となって神様の愛を伝えたいと。
ある日、晩御飯の用意をしているときに、突然、そういう思いが稲妻のように落ちて来て。
震えて身体がしびれて泣いていたときに。
包丁を置いて、パソコンの前に座り「どなたかタダで伴奏してください」と掲示板に書き込んだのが
私のライブのスタートでした。
この1年、ライブはしていないけれども、何回か歌を歌わせていただく機会がありました。
今の私は以前よりもずっと愛を伝えられるようになった気がするし、それが歌を歌うということだと胸を張って言えます。
この世界の愛をみんなで一緒に見たい。それが歌なんです。上手いとか下手とかどうでもいいんです。死ぬまで歌います。
☆夜の飛行機から見える街の灯りはなんでだか、愛を感じますよね。
真っ暗な砂漠の大地の中に、ところどころ、美しいオアシスのような街の明かりが灯っているのを見た時、
生命の灯りそのものだなぁと感じました。
みんな生きている。
☆宮古島へ今年、私が3回。息子も椿の実の収穫の手伝いに1回。
突然、今年から宮古島へ通い始めました。
椿オイルを作っている、砂川次郎さんとの出会いは大きかったです。
とにかく愛と創造の人生。
宮古島の農家の人たちのために、宮古島初のテレビアンテナを立て、みんなで白黒テレビで
東京オリンピックを観たり。
大阪で少年工として働き、宮古島に初の鉄骨建設をもたらし、無償で広めたり。
さとうきび農家を楽にさせてあげるために、いろいろな農耕機械を開発、特許を取得。
宮古島の子供たちのために、ふれあい動物園を作ったり。
宮古島に釣り堀が無かったから、テラピアの釣り堀を作ったり。
宮古島の気候に合った作物を見つけるため、さまざまな植物を植えては、苗をみんなに無償で配っています。
椿の苗もそう。
宮古島の人のためと思うことを一生けん命やってきて、騙されたり傷ついたりしながらも
たくさんの人に愛されてとても幸せに暮らしてらっしゃる仲良しご夫婦の姿は、今まで見てきたどんな悲しい話、
悲しい人生をも全部吹き飛ばしてしまうほど、この世はなんて素敵なことであふれているんだろうと思えるのでした。
11月は宮古島から帰る日が、なんと次郎さんの誕生日で。
前夜に次郎さんの人生をそのまま歌にした歌を考えて、お別れの席で歌いました。
偶然、島で一緒になった、さとこさんに伴奏をしてもらい。。。
まるでいろんなことがシナリオに書かれていたのかなと思うほど、偶然は必然です。
次郎さんのおかげか、今年はスポンジアの他に、もっといくつかの新しい創造物が出来ました。
考えて壁にぶつかって悩んでは突破する。人生この繰り返しだから面白い。壁がなくっちゃ話にならない。
そうして本当に世の中に価値を与える新しいものが生まれるのではないかと思います。
創造し続けよう!
来年もよろしくお願いいたします!
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